(1)『魏志倭人伝』とは
『魏志倭人伝』は陳寿がえらんだ三国時代の歴史書『三国志』のひとつである『魏書』の巻30東夷伝・倭人の条をさします。陳寿が亡くなったのが297年と言われていますので、『魏志倭人伝』は3世紀末までに書かれたものと思われます。
『魏志倭人伝』には、彼の国から3世紀に倭国を訪れた事実として下記の2回が記されています。
・240年(正始元年):(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を持って倭国へ行き、これを倭王に授けた
・247年(正始八年):(王頎は)張政(塞曹掾史)等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した(卑弥呼が使節を送り、狗奴国の男王の卑弥弓呼素と和せず、と告げたことへの対応)
『魏志倭人伝』に倭国の生活なども詳しく書かれているのは、240年の使節団の報告や来朝してから約20年後の266年に帰国した張政等からもたらされた情報がもとになってと思われます。
そしてそのあと時を経て、『後漢書倭伝(424年頃)』、『隋書俀国伝(627年頃)等に倭国のことが書かれています。倭国から朝見したものからの情報も含め、このような歴史を経て書き残されたことが、後世の歴史学者や市井の古代史愛好家の興味を喚起し、今日まで議論百出しています。
『魏志倭人伝』は陳寿がえらんだ三国時代の歴史書『三国志』のひとつである『魏書』の巻30東夷伝・倭人の条をさします。陳寿が亡くなったのが297年と言われていますので、『魏志倭人伝』は3世紀末までに書かれたものと思われます。
『魏志倭人伝』には、彼の国から3世紀に倭国を訪れた事実として下記の2回が記されています。
・240年(正始元年):(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を持って倭国へ行き、これを倭王に授けた
・247年(正始八年):(王頎は)張政(塞曹掾史)等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した(卑弥呼が使節を送り、狗奴国の男王の卑弥弓呼素と和せず、と告げたことへの対応)
『魏志倭人伝』に倭国の生活なども詳しく書かれているのは、240年の使節団の報告や来朝してから約20年後の266年に帰国した張政等からもたらされた情報がもとになってと思われます。
そしてそのあと時を経て、『後漢書倭伝(424年頃)』、『隋書俀国伝(627年頃)等に倭国のことが書かれています。倭国から朝見したものからの情報も含め、このような歴史を経て書き残されたことが、後世の歴史学者や市井の古代史愛好家の興味を喚起し、今日まで議論百出しています。
(2)邪馬台国の所在地を探すための大前提
邪馬台国の所在地を探すには、『魏志倭人伝』をもとにした行程の解釈のみではその所在地は割り出せない、と言われているようです。私はにわか勉強のアマチュアで、今は先人たちが披露した知識をほんの少しだけ学びましたが、これから書くことは、最初に『魏志倭人伝』を読んで、ほぼ白紙の状態で、邪馬壹国について考えたことです。邪馬台国に興味を持つ方が、おそらく皆が一度はおこなうであろうことを試みてみました。
特に、邪馬壹国の所在地が何処かを探す時に、『魏志倭人伝』に記載されている内容(距離・方角・所要時間などの基本情報)を尊重することを心掛けました。記載されていることを「間違い」と決めつけることはしないで、邪馬壹国にたどり着けなければ仕方ない、それはそれでいいと割り切りました。
『魏志倭人伝』の原文は、下記の2つを参照しました。原本は段落などなく文字の羅列(2000文字程度)ですが、前者は「。」と「、」で文節を分けて、後者は文節に区切りのスペースを挟み読みやすくしています。
・岩波文庫:和田 清 石原道弘 編訳
魏志倭人伝・後漢書倭伝
宋書倭国伝・隋書倭国伝
・東亜古代史研究所 塚田敬章
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
邪馬台国の所在地を探すには、『魏志倭人伝』をもとにした行程の解釈のみではその所在地は割り出せない、と言われているようです。私はにわか勉強のアマチュアで、今は先人たちが披露した知識をほんの少しだけ学びましたが、これから書くことは、最初に『魏志倭人伝』を読んで、ほぼ白紙の状態で、邪馬壹国について考えたことです。邪馬台国に興味を持つ方が、おそらく皆が一度はおこなうであろうことを試みてみました。
特に、邪馬壹国の所在地が何処かを探す時に、『魏志倭人伝』に記載されている内容(距離・方角・所要時間などの基本情報)を尊重することを心掛けました。記載されていることを「間違い」と決めつけることはしないで、邪馬壹国にたどり着けなければ仕方ない、それはそれでいいと割り切りました。
『魏志倭人伝』の原文は、下記の2つを参照しました。原本は段落などなく文字の羅列(2000文字程度)ですが、前者は「。」と「、」で文節を分けて、後者は文節に区切りのスペースを挟み読みやすくしています。
・岩波文庫:和田 清 石原道弘 編訳
魏志倭人伝・後漢書倭伝
宋書倭国伝・隋書倭国伝
・東亜古代史研究所 塚田敬章
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
2.原文に沿って旅程を図に描く 【図-1】参照
(1)3世紀の前半の渡航
まず、帯方郡から邪馬壹国までの行程を実感するために、過去に紹介されていると思われる図を探すことをしないで、『魏志倭人伝』の記述をもとに【図-1】を書き、さらに書かれている情報の一部を書き込みました。
57年に奴国の使者が洛陽に赴いてから両国の往来はあったようですが、航路がどの程度開発されていたのか、3世紀の前半に航路は定まっていただろうか、使節団の行程は大変だったろう、とまず感じました。

(2)『魏志倭人伝』より読み取る邪馬壹国のイメージ
目指す邪馬壹国を下記のようにイメージしました。
・《倭人在帶方東南大海之中》:帯方郡からみて東南にあり、海に囲まれている
(現在の日本列島が海に囲まれていることを意味しているのか?)
・《周旋可五千餘里》:周囲5000餘里の大きさ
・《依山㠀為國邑》:山島に依って国邑を作っている
・《倭水人好沉没捕魚蛤》:倭の水人は、潜って魚や蛤を捕ることを好む
3.帯方郡から邪馬壹国までを鳥瞰する 【図-2】参照
(1)大きさの把握
帯方郡を出発し朝鮮半島を陸沿いに南下し東に向かって狗邪韓国まで七千餘里とあり、邪馬壹国の《周旋可五千餘里》とあるところに着目します。
地図を見ながら、この七千餘里と五千餘里の双方を比較すれば、邪馬壹国の大きさはほぼ九州の大きさに相当することがわかります。
(2)距離の把握
『魏志倭人伝』に書かれている距離に関するデータを考察します。
・自郡至女王國 萬二千餘里:帯方郡から女王國まで12000餘里
・帯方郡から、海と陸を経て伊都國までの距離を足すと10500餘里
・帯方郡から、海と陸を経て不弥国までの距離を足すと10700餘里
邪馬壹国が帶方郡の東南方12000里のところにあるとすれば、伊都國から残りは、1500餘里、不弥国から1300餘里ということになります。

4.狗邪韓国から末盧國へ 【図-3】参照
(1)帯方郡から狗邪韓國へ
帯方郡を出発し、朝鮮半島を陸沿いに南下し、東に向かって狗邪韓国に至り、倭国に向けて出発することになりますが、《到其北岸狗邪韓國》に書かれている《北岸》の《其》が何処であるか解明できていません。対海国(対馬)から一大国(壱岐)までの距離にほぼ等しいところとして、狗邪韓國を釜山と比定して先へ進みます。
狗邪韓國から対海国(対馬)から一大国(壱岐)を経て九州へ向かったことは問題ないとして、九州のどこへ上陸したかが興味の対象になります。
(2)上陸した末盧國の場所
末盧國については、《有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之》と書かれており、一大国(壱岐)から玄海灘を渡って九州へ上陸した場所として、松浦・唐津・博多・宗像・芦屋の5つの候補を上げました。
一大国からの方向は示してないので、今回大前提としている「距離」を重要視し、「宗像」を最有力候補としました。
宗像は一大国(壱岐)から對海國(対馬)への距離とほぼ等しいところ、《草木茂盛行不見前人》の意味する、浜・山・海、草木が茂っている、海のそば、等を配慮しました。水に潜って魚やアワビを捕ること、については候補に挙げた場所は海のそばなので、すべてに共通のこととして考慮しませんでした。

図-3 狗邪韓国から末盧國へのルート
(3)そのほかの候補
⑤松浦:当時の航海では、航海ルートは一番安全で最短で海峡をわたれる航路を
選択したはずです。しかし、一大国(壱岐)に近すぎる、壱岐から見え
そうなところを千餘里とは言わないのではないか
(今回は距離にこだわっています)
発音の印象として末盧によく似ていますが
⑥唐津:一大国(壱岐)に近すぎること、草木が茂って先も見えないという
イメージからすると松浦のほうがそれに近い
⑦博多:距離的には許容できるが、貿易港として栄え、草木が茂って先も見えない
というイメージにそぐわない
⑨芦屋:距離としては、少し遠くなるが、
後行程でヤマトつながる可能性があるので候補に
方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(2/3 後編)
方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(3/3 考察)
(1)帯方郡から狗邪韓國へ
帯方郡を出発し、朝鮮半島を陸沿いに南下し、東に向かって狗邪韓国に至り、倭国に向けて出発することになりますが、《到其北岸狗邪韓國》に書かれている《北岸》の《其》が何処であるか解明できていません。対海国(対馬)から一大国(壱岐)までの距離にほぼ等しいところとして、狗邪韓國を釜山と比定して先へ進みます。
狗邪韓國から対海国(対馬)から一大国(壱岐)を経て九州へ向かったことは問題ないとして、九州のどこへ上陸したかが興味の対象になります。
(2)上陸した末盧國の場所
末盧國については、《有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之》と書かれており、一大国(壱岐)から玄海灘を渡って九州へ上陸した場所として、松浦・唐津・博多・宗像・芦屋の5つの候補を上げました。
一大国からの方向は示してないので、今回大前提としている「距離」を重要視し、「宗像」を最有力候補としました。
宗像は一大国(壱岐)から對海國(対馬)への距離とほぼ等しいところ、《草木茂盛行不見前人》の意味する、浜・山・海、草木が茂っている、海のそば、等を配慮しました。水に潜って魚やアワビを捕ること、については候補に挙げた場所は海のそばなので、すべてに共通のこととして考慮しませんでした。

図-3 狗邪韓国から末盧國へのルート
(3)そのほかの候補
⑤松浦:当時の航海では、航海ルートは一番安全で最短で海峡をわたれる航路を
選択したはずです。しかし、一大国(壱岐)に近すぎる、壱岐から見え
そうなところを千餘里とは言わないのではないか
(今回は距離にこだわっています)
発音の印象として末盧によく似ていますが
⑥唐津:一大国(壱岐)に近すぎること、草木が茂って先も見えないという
イメージからすると松浦のほうがそれに近い
⑦博多:距離的には許容できるが、貿易港として栄え、草木が茂って先も見えない
というイメージにそぐわない
⑨芦屋:距離としては、少し遠くなるが、
後行程でヤマトつながる可能性があるので候補に
方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(2/3 後編)
方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(3/3 考察)
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