<全体構成>
龍の起源について、ヨーロッパの悪いドラゴン(一極)と東洋の善い龍(二極)に対して、
中南米に第三の極が存在するか?について考察したものです。
はじめに
2章 ヨーロッパの悪いドラゴンと東洋の善い龍
3章 ヨーロッパの龍の起源~メソポタミアのシュメール~
4章 ヨーロッパにおけるドラゴンの系譜
5章 東洋における龍の起源~インド・中国・アジア・日本~
6章 日本における龍の起源
7章 中南米における龍の起源:メソアメリカ
8章 中南米における龍の起源:アンデス
9章 結論と考察:龍の起源の第三の極
おわりに
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6章 日本における龍の起源
これまで龍が話題になった時に、最初に龍が登場したのはどんなもの?、それは何時?、と問われることがあります。3章では、世界で最初の龍(ドラゴン)として、古代メソポタミのアシュメール神話に登場する「ティアマト」を紹介しました。
では、日本で初めて登場した龍は?、と問われて正確に答えるのは、自称龍楽者の則を超えて学の世界に足を踏み込むことになります。しかし、龍楽者にも興味のあることなので、あえて学の世界を垣間見たことをもとに、以下に記すことは、あくまで龍楽者の「仮説」であることをお許しいただきたい。
6-1.弥生時代の土器の龍の文様
大阪府立弥生文化博物館に所蔵されている、池上曽根遺跡から出土した弥生式土器に龍のような文様が刻まれています。この土器は弥生時代(紀元前10世紀-3世紀)後期のものとされています。
池上曽根遺跡出土 大阪府立弥生文化博物館所蔵
【左:天舞地さんのブログ 注1】
【右:黒織部さんのブログ 注2】
古墳から出土する中国鏡のほとんどは、後漢時代から六朝時代に造られたものであり、この時代の「四神」の思想や龍のかたちを見ることができます。
6-3.ヤマタノオロチ神話
ヤマタノオロチの神話は、『古事記』と『日本書紀』に多く記されています。『古事記』は、天皇の国土の支配や皇位継承の正当性を国内に示す目的で、『日本書紀』は、唐や新羅などの東アジアに通用する正史を編纂する目的で編纂されたというのが通説です。
ヤマタノオロチの神話で、記紀の細部を比較すると両者には異なる部分があります。ヤマタノオロチの神話は、日本のオリジナルのものなのか、退治されたのは蛇なのか龍なのか、ヤマタノオロチは退治される「悪い龍」なのに、後世の日本の「善い龍」となったのは何故なのか?など、いくつかの知りたいことがあります。
<ヤマタノオロチ神話のあらまし> 高天原を追放されたスサノオは、出雲国の肥の河の上流の鳥髪の地(船通山)に天降りる。川上から箸が流れてきたので、人が住んでいるだろうと考え川をさかのぼると、一人の娘を真ん中にして泣いている老夫婦に出会う。老夫婦は国つ神であるアシナヅチとテナヅチ。娘の名はクシナダヒメ。
スサノオが老夫婦に泣いている理由を尋ねると、老父は「私たちには八人の娘がいた。毎年、山からヤマタノオロチが降りて来て七人の娘が食べられた、今年もヤマタノオロチが来る時期になり、最後に残ったクシナダヒメも食べられてしまう、それが悲しくて泣いている」、と答える。
話を聞いたスサノオは、老夫婦に、クシナダヒメとの結婚を条件にオロチを退治することを持ちかける。まずクシナダヒメの安全を守るため、彼女を爪形の櫛に変えて自分の髪にさす。
老夫婦に、家のまわりに垣根を張り巡らせ、その垣根に八つの門を設けること、さらに門ごとに八つの桟敷を作ること、そこに何度も醸造した強い酒を満たした桶を置いておくこと、などの指示を出す。
待ち構えていると、すさまじい地響きとともにヤマタノオロチが現れ、芳醇な香りが漂う酒を見つけたオロチは八つの桶にそれぞれ頭を突っ込んで酒を飲み始めた。やがてすべての酒を飲み干してしまうと、オロチは酔っぱらって、眠り込んでしまう。
スサノオが腰に差している剣を抜きヤマタノオロチに切りかかり、首を切り、身体を切り刻む。そして刃がオロチの尾に達したときに剣の歯が欠け、尾を切り開いたときに中から見事な太刀が出てきた。
スサノオはこの太刀をアマテラスに献上。これが、のちに草薙(くさなぎ)の剣といわれ、皇室の三種の神器の一つとされる。スサノオとクシナダヒメは出雲の淸地(須賀)の地に住んだ。
<退治されたのは蛇か龍か>
記紀ではヤマタノオロチの姿を、一つの胴体に八つの頭と八つの尾をもち、目はホオズキのように真っ赤。しかも身体じゅうに苔が生い茂り、檜や杉が生え、八つの谷と八つの丘にまたがるほど巨大で、腹のあたりはいつも血がにんじでいると、説明しています。
『古事記』では、十拳(とつか)剣で切り刻まれるときにはじめて「蛇(クチナワ)」という名前が使われますが、この「蛇」は蛇行して流れる肥の河の自然を象徴しています。
ヤマタノオロチは、《蛇を超える脅威を与えるものとして蛇を進化させ、神話の中で新しいイメージを創り、シンボルとした「龍」である》、というのが自称龍楽者の現時点での理解です。
<日本のオリジナルの寓話か?>
4世紀(記紀成立の約300年前)に中国の東晋の干宝が著した志怪小説集『捜神記』の中に「ヤマタノオロチ神話」とよく似たお話があります。学の世界でも定説とはなっていないようですが、「ヤマタノオロチ神話」は『捜神記』に大きな影響を受けているとの説があるので紹介します。
人身供犠のプロットはおなじですが、蜜と炒り麦の粉をまぜたものをかけた米の団子(ヤマタノオロチでは酒)を大蛇の住む穴に置き、生贄にされた娘(寄)が蛇を噛む犬を連れて大蛇を退治し、娘は越王の后に、父や母や姉も厚遇された、というところが大きく異なっています。
図6-5 記紀と捜神記の比較表
エピローグ 英雄が、強力な怪物と戦って女性を救い出すという神話の定型の一つは「アンドロメダ型神話」と呼ばれています。『ヤマタノオロチ神話』も『捜神記』もその類型に入ります。また、ギリシャ神話が中国に伝わり、それが日本にも伝わったという説もあり無視できません。
しかし、「アンドロメダ神話」では、巨悪な怪物はドラゴンであり、『捜神記』では長さ七~八丈、大きさは十余抱え、頭は米蔵、目は直径が2尺もある鏡を持った大蛇とされる怪物です。「ヤマタノオロチ神話」では「暴れる自然」を象徴しているところに特徴があります。
ヤマタノオロチは退治される「悪い竜」の典型であり、西洋の「ドラゴン」と同じ悪役です。では、後世の日本における「善い龍」へ変化した経緯をどのように説明すればいいのでしょうか?
現時点で私が理解するところは以下のとおりです。日本にも暴れる自然という「悪い竜」が居た、しかし日本では、農耕文化において「自然」が重要な位置を占め、自然を克服するのではなく共生することを良しとした。そこには、中国から直接、または朝鮮半島を経由して日本に伝わった「善い龍」の影響が大きい。
『続日本紀』には、701年(大宝元)に文武天皇を大極殿に迎えて行われた元旦儀式で、東側に日像(太陽)と青龍と朱雀の3本の旗竿を、西側に月像と玄武と白虎の3本を立てたことが記されています。これは、中国を源とする「陰陽五行思想」の影響であり、同時代の、高句麗の江西(カンソ)大墓古墳の影響を受けたと考えられる高松塚古墳やキトラ古墳の「四神」などにも通じるところがあります。
記紀の編纂とほぼ同じ時期に「四神」のひとつとして「善い龍(青龍)」が存在していたことは明らかであり、「善い龍」はこの頃にはすでに始まっていたと考えられます。
7回 中南米における龍の起源:メソアメリカ
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<出典>
生部圭助 メルマガIDN編集後記 第379号(2017/02/01)に追記
注1 天舞地さんのブログ
龍の起源について、ヨーロッパの悪いドラゴン(一極)と東洋の善い龍(二極)に対して、
中南米に第三の極が存在するか?について考察したものです。
はじめに
2章 ヨーロッパの悪いドラゴンと東洋の善い龍
3章 ヨーロッパの龍の起源~メソポタミアのシュメール~
4章 ヨーロッパにおけるドラゴンの系譜
5章 東洋における龍の起源~インド・中国・アジア・日本~
6章 日本における龍の起源
7章 中南米における龍の起源:メソアメリカ
8章 中南米における龍の起源:アンデス
9章 結論と考察:龍の起源の第三の極
おわりに
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6章 日本における龍の起源
これまで龍が話題になった時に、最初に龍が登場したのはどんなもの?、それは何時?、と問われることがあります。3章では、世界で最初の龍(ドラゴン)として、古代メソポタミのアシュメール神話に登場する「ティアマト」を紹介しました。
では、日本で初めて登場した龍は?、と問われて正確に答えるのは、自称龍楽者の則を超えて学の世界に足を踏み込むことになります。しかし、龍楽者にも興味のあることなので、あえて学の世界を垣間見たことをもとに、以下に記すことは、あくまで龍楽者の「仮説」であることをお許しいただきたい。
6-1.弥生時代の土器の龍の文様
大阪府立弥生文化博物館に所蔵されている、池上曽根遺跡から出土した弥生式土器に龍のような文様が刻まれています。この土器は弥生時代(紀元前10世紀-3世紀)後期のものとされています。
図6-1 龍のような文様が刻まれている弥生式土器
【左:天舞地さんのブログ 注1】
【右:黒織部さんのブログ 注2】
6-2.古墳から発掘された銅鏡に龍の姿を見る
古墳時代の鏡は、弥生時代から古墳時代には権威のシンボルとして、墳墓で多く副葬されました。3~4世紀の古墳には、精巧な舶載鏡(輸入された鏡)やぼう製鏡(国産鏡)が大量に納められていて、副葬品として重要な位置を占めています。古墳から出土する中国鏡のほとんどは、後漢時代から六朝時代に造られたものであり、この時代の「四神」の思想や龍のかたちを見ることができます。
図6-2 方格規矩四神鏡 後漢時代1~2世紀
【東京国立博物館所蔵 TJ-645】
【東京国立博物館所蔵 TJ-645】
6-3.ヤマタノオロチ神話
ヤマタノオロチの神話は、『古事記』と『日本書紀』に多く記されています。『古事記』は、天皇の国土の支配や皇位継承の正当性を国内に示す目的で、『日本書紀』は、唐や新羅などの東アジアに通用する正史を編纂する目的で編纂されたというのが通説です。
ヤマタノオロチの神話で、記紀の細部を比較すると両者には異なる部分があります。ヤマタノオロチの神話は、日本のオリジナルのものなのか、退治されたのは蛇なのか龍なのか、ヤマタノオロチは退治される「悪い龍」なのに、後世の日本の「善い龍」となったのは何故なのか?など、いくつかの知りたいことがあります。
図6-3 ヤマタノオロチ伝説の記紀の比較表 詳細版
<ヤマタノオロチ神話のあらまし>
スサノオが老夫婦に泣いている理由を尋ねると、老父は「私たちには八人の娘がいた。毎年、山からヤマタノオロチが降りて来て七人の娘が食べられた、今年もヤマタノオロチが来る時期になり、最後に残ったクシナダヒメも食べられてしまう、それが悲しくて泣いている」、と答える。
話を聞いたスサノオは、老夫婦に、クシナダヒメとの結婚を条件にオロチを退治することを持ちかける。まずクシナダヒメの安全を守るため、彼女を爪形の櫛に変えて自分の髪にさす。
老夫婦に、家のまわりに垣根を張り巡らせ、その垣根に八つの門を設けること、さらに門ごとに八つの桟敷を作ること、そこに何度も醸造した強い酒を満たした桶を置いておくこと、などの指示を出す。
待ち構えていると、すさまじい地響きとともにヤマタノオロチが現れ、芳醇な香りが漂う酒を見つけたオロチは八つの桶にそれぞれ頭を突っ込んで酒を飲み始めた。やがてすべての酒を飲み干してしまうと、オロチは酔っぱらって、眠り込んでしまう。
スサノオが腰に差している剣を抜きヤマタノオロチに切りかかり、首を切り、身体を切り刻む。そして刃がオロチの尾に達したときに剣の歯が欠け、尾を切り開いたときに中から見事な太刀が出てきた。
スサノオはこの太刀をアマテラスに献上。これが、のちに草薙(くさなぎ)の剣といわれ、皇室の三種の神器の一つとされる。スサノオとクシナダヒメは出雲の淸地(須賀)の地に住んだ。
図6-4 八岐大蛇退治
【笹間良彦著 『龍の歴史辞典』遊子館より】
【笹間良彦著 『龍の歴史辞典』遊子館より】
記紀ではヤマタノオロチの姿を、一つの胴体に八つの頭と八つの尾をもち、目はホオズキのように真っ赤。しかも身体じゅうに苔が生い茂り、檜や杉が生え、八つの谷と八つの丘にまたがるほど巨大で、腹のあたりはいつも血がにんじでいると、説明しています。
『古事記』では、十拳(とつか)剣で切り刻まれるときにはじめて「蛇(クチナワ)」という名前が使われますが、この「蛇」は蛇行して流れる肥の河の自然を象徴しています。
ヤマタノオロチは、《蛇を超える脅威を与えるものとして蛇を進化させ、神話の中で新しいイメージを創り、シンボルとした「龍」である》、というのが自称龍楽者の現時点での理解です。
<日本のオリジナルの寓話か?>
4世紀(記紀成立の約300年前)に中国の東晋の干宝が著した志怪小説集『捜神記』の中に「ヤマタノオロチ神話」とよく似たお話があります。学の世界でも定説とはなっていないようですが、「ヤマタノオロチ神話」は『捜神記』に大きな影響を受けているとの説があるので紹介します。
人身供犠のプロットはおなじですが、蜜と炒り麦の粉をまぜたものをかけた米の団子(ヤマタノオロチでは酒)を大蛇の住む穴に置き、生贄にされた娘(寄)が蛇を噛む犬を連れて大蛇を退治し、娘は越王の后に、父や母や姉も厚遇された、というところが大きく異なっています。
図6-5 記紀と捜神記の比較表
エピローグ
しかし、「アンドロメダ神話」では、巨悪な怪物はドラゴンであり、『捜神記』では長さ七~八丈、大きさは十余抱え、頭は米蔵、目は直径が2尺もある鏡を持った大蛇とされる怪物です。「ヤマタノオロチ神話」では「暴れる自然」を象徴しているところに特徴があります。
ヤマタノオロチは退治される「悪い竜」の典型であり、西洋の「ドラゴン」と同じ悪役です。では、後世の日本における「善い龍」へ変化した経緯をどのように説明すればいいのでしょうか?
現時点で私が理解するところは以下のとおりです。日本にも暴れる自然という「悪い竜」が居た、しかし日本では、農耕文化において「自然」が重要な位置を占め、自然を克服するのではなく共生することを良しとした。そこには、中国から直接、または朝鮮半島を経由して日本に伝わった「善い龍」の影響が大きい。
『続日本紀』には、701年(大宝元)に文武天皇を大極殿に迎えて行われた元旦儀式で、東側に日像(太陽)と青龍と朱雀の3本の旗竿を、西側に月像と玄武と白虎の3本を立てたことが記されています。これは、中国を源とする「陰陽五行思想」の影響であり、同時代の、高句麗の江西(カンソ)大墓古墳の影響を受けたと考えられる高松塚古墳やキトラ古墳の「四神」などにも通じるところがあります。
図6-6 大宝元(701)年の元旦儀式に立てられた朝賀の幢幡(どうばん 旗)
【「平安宮発掘調査報告XIV」なぶんけんブログより 注3】
【「平安宮発掘調査報告XIV」なぶんけんブログより 注3】
記紀の編纂とほぼ同じ時期に「四神」のひとつとして「善い龍(青龍)」が存在していたことは明らかであり、「善い龍」はこの頃にはすでに始まっていたと考えられます。
7回 中南米における龍の起源:メソアメリカ
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<出典>
生部圭助 メルマガIDN編集後記 第379号(2017/02/01)に追記
注1 天舞地さんのブログ
https://ameblo.jp/creator1universe/entry-12844598932.html
注2 黒織部さんのブログ
https://x.com/kurooribe/status/1167837156531793921/photo/2
注3 なぶんけんブログ
https://livedoor.blogcms.jp/blog/ryugakusha/article/edit?id=27594260
=================================================================================注3 なぶんけんブログ
https://livedoor.blogcms.jp/blog/ryugakusha/article/edit?id=27594260
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