1.はじめに
 邪馬台国に興味を持って、先人たちが披露した知識をほんの少しだけ学びましたが、先入観を排しほぼ白紙の状態で『魏志倭人伝』をもとにして、邪馬台国の所在地を探し、熊本近郊であると私なりに結論を得て、その概要を『1/3 前編』と2/3後編 』に書きました。
『魏志倭人伝』には、帯方郡から邪馬壹国に至る旅程、社会の構造から倭人の倫理観、政治の動き、外交面での魏との関係や年代など、実際に住んみないとわからないようなことが詳しく述べられています。邪馬壹国の場所を探るにあたっても、記載されている内容(距離・方角・所要時間などの基本情報)を尊重することを心掛けました。
 私が得た旅程と邪馬壹国の所在地の結論はあくまでも、『魏志倭人伝』の記述にある、邪馬壹國は帯方郡から12000餘里のところにあり、帯方郡から伊都國の累計が10500餘里として、伊都國から「放射方式」により1500里南に行ったところを女王国の所在地としたものです。
 この結論を得た後で多少学ぶ努力をしたことで気が付いた点もあり、『3/3 考察』として記すことにしました。


2.帯方郡から邪馬壹國までの旅程
 【図-1a】は、『1/3 前編』で自分自身が『魏志倭人伝』の記載内容を理解するために本書に書かれている通りにその内容を図に描いてみた【図-1】をほんの少し追加・修正したものです。

図-1a図-1a 魏志倭人伝の内容を図示する

3.帯方郡から邪馬壹国までを鳥瞰する
(1)大きさの把握 【図-2a】参照
『1/3 前編』では、地図を見ながら帯方郡から倭国を鳥瞰しました。帯方郡から狗邪韓国まで七千餘里があり、邪馬壹國について《周旋可五千餘里》と書かれています。双方を比較し、邪馬壹国の大きさはほぼ九州の大きさに相当すると理解しました。
 現時点の私の解をもとに、邪馬壹国の範囲を熊本より北部の九州として図示しています。帯方郡から狗邪韓国までの七千餘里と邪馬壹國の周旋五千餘里のバランスがよくなりました。
 なお、大きさの把握においては以下の3点を考察しました。
①『1/3 前編』には、九州の縦方向を実測すると、約340km、1里を63mとしますと約5400里になります。『魏志倭人伝』では、邪馬壹國の周囲を5000餘里としていますので、整合しているとは言い難い、と書きました。5-(3)で示した「短里説」に沿って、70m/里(63m/里を2割増し)にした6,480里でも、まだ不足です。しかし、今回は邪馬壹国の範囲を熊本より北部の九州としていますので、《周旋5000餘里》については問題としなくてもよくなりました。
②私は《周旋》の意味について、「周囲」としましたが、「めぐり歩いた距離」と解釈する説もあり、倭国の最北端の狗邪韓国から邪馬壹国まで海路3000里、陸路2000里、合わせて5000里とする考え方もあり、紹介しておきます。 
③女王の居るところを「ヤマト」として、九州までを邪馬壹国の範囲だとしますと、5000餘里の何倍にもなり、鳥瞰した時の大きさに違和感があります。627年頃に書かれた『隋書俀国伝』には、《其國境 東西五月行 南北三月行》、《自竹斯國以東 皆附庸於倭》と書かれており、7世紀の倭国の大きさは、3世紀の周旋5000餘里の邪馬壹国に比べてはるかに大きく、竹斯國(九州の博多と比定)から東が倭国の範囲であることが読み取れます。

図-2a
図-2a 帯方郡から邪馬壹国までを俯瞰する

4.狗邪韓国から末盧國へ
(1)帯方郡から狗邪韓國へ
 帯方郡を出発し、朝鮮半島を陸沿いに南下し、東に向かって狗邪韓国に至り、倭国に向けて出発することになります。《到其北岸狗邪韓國》と書かれている《北岸》の《其》について、『1/3 前編』では曖昧にしていましたが、当時の狗邪韓國は倭国の勢力の範囲だったと理解します。定説通り、釜山を出発し九州へ向かいます。

(2)上陸した末盧國の場所【図-8】【図-3a】参照
 九州の最初に上陸する末盧國については、松浦・唐津・博多・宗像・芦屋の5つの候補を上げ、一大国(壱岐)から對海國(対馬)への距離とほぼ等しいところで《草木茂盛行不見前人》の意味する、草木茂盛して行くに前人を見ず、等を配慮し博多でなく宗像を比定しました。
①1000里の意味は、1日航海分を1000里単位とした
「1000里は1里の1000倍ではなく、A地点からB地点へ一日で航海する距離を1000里とする」という考え方があります。一大国(壱岐)から(定説になっている)松浦への実距離が近すぎるので、宗像を比定したという理由は適当でないということになります。
②潮流と風向
 一大国(壱岐)から倭国へ渡るのに、最も近い松浦を目指すのがよさそうです。しかし、この海域には対馬海流があり、初夏の風向きも考慮すると、多少距離が遠くても宗像への航海が有利です。上陸地を宗像比定したことを良しとしました。倭国から狗邪韓国への帰路には松浦ルートが向いているかもしれません。
*海上保安庁の資料では、海流の速度:1-1.5ノット=時速1.9m-2.8m
海流
図-8 対馬海流
(https://jumgon.exblog.jp/14453541/)
図-3a
図-3a 狗邪韓国から末盧國へのルート

5.末盧國~不彌國の行程
 いよいよ九州に入り、まず、末盧國から不彌國に至る行程を探ります。
(1)記載の仕方に違和感
 行程を考えるときには、地名・向かう方向・到達するまでの距離や時間が必要です。まず気が付くことは、不彌國までは距離が示してあるのに、不彌國以降については、日または月になっていることです。かなり遠方にある土地へ行くのに距離の示し方が大雑把です。またよく見ると、伊都国の前後で記載の順番が異なっています。
 ①伊都国までは、方位・距離・地名の順番で記載されている
 ②伊都国から以降は、方位・地名・距離の順番で記載されている
 ③不彌國から以降は、方位・地名・方法・日または月

(2)面と点の考え方
 國と國との位置関係を見るときに、点と面の見方が重要になります。例えば邪馬壹国について、女王が居住しているところ、女王國、女王が支配するところ(邪馬壹國)、の3つの見方があります。國と國との距離については、國の境界同志の間でなく、國の特定の場所(邪馬壹国では、女王が居住しているところ)との間の距離とします。

(3)1里を何メートルとするか:距離を短く計算する
 『魏志倭人伝』に記されている行程の中で、二つの隣り合った(確かと思われる)場所を地図上で実測できるのは対海国(対馬)から一大国(壱岐)のみです。Google Mapで実測すると対馬市~壱岐市間は約63kmになります。『魏志倭人伝』ではこの間を1000餘里としていますので、『2/3 後編』では1里=約63mとしました。
①ここでいう1000里は一日の一航海する距離を意味しており、「1里=63m」ではないと考えるべきです。
②一大国(壱岐)から對海國(対馬)への1000里は実距離ではないとすると、
 この1里=約63mは理屈に合いません
③短里説
 「短里」というのは、尺貫法の1里が約435 mであるのを、「周髀算経」や「九章算術」という当時の数理科学書の知識で、1里が76~77mに相当することが計算されるというもの。1里が何メートルかについては、WEBで調べても実にたくさんの想定する方法と距離について提案があります
③私が想定した、1里=約63mについては、算定方法に問題があります。1里が76~77mに対して20%程度の誤差がありますが、作図をしなおすことはしませんでした。【図-5】【図-6】
<方向について>
 旅程の方向については、九州に上陸後邪馬壹国に至る旅程を明らかにするのに、『魏志倭人伝』の記載を忠実に守り、熊本に到達しました。
 余談ですが、「九州説」及び「近畿説」のどちらについても、書籍やWEB上で発表されている例は無神経に扱われているのが多いと感じました。

(4)それぞれの國についての予備知識:特に伊都國について
 『2/3 後編』には、それぞれの国について簡単に記しましたが、伊都國について追記します。『魏志倭人伝』の中で、《到伊都國》と書かれており、伊都國には「到」という字が使われています。
①「到」を到達とし、「至」を通過点と考えると、伊都國は特別なところである
②《世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐》:女王国に従属し、代々王が居て、(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所
③《特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國》:役人(一大卒)を置く。入り口の監視所がある
④《皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯》:港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない
とあり、邪馬壹國の出先として重要拠点となっていることが分かります。
⑤「到」の意味するところと以上の記述から、魏使は伊都國まで来て、詔書、印綬などを倭王(卑弥呼は人に合わない)に届けるのを託したと解釈してもいいのではないか
⑥247年に卑弥呼が狗奴国との不和を伝えたことを受け、倭国に派遣された張政(塞曹掾史)は《女王之所都》まで行ったと思われる
⑦伊都國についてこのようなことを考えたことが、伊都國より先を榎 一雄の「放射方式」とした理由でもあります

(5)末盧國から不彌國までのルート 【図-5】【図-6】参照
 以上のことを意識しながら、『魏志倭人伝』に書かれている方位と距離をもとに、末盧國から不彌國までのルートを地図上に書き、宗像ルートを有力な解としました。
①伊都國を飯塚市近郊と比定
伊都國》と飯塚は呼び方が似ているように思えますが、云々する知識を持ち合わせていません
②女王国の所在地を熊本近郊と比定
 これは、帯方郡から邪馬壹國が12000餘里、帯方郡から伊都國の累計が10500餘里として、伊都國から「放射方式」により1500里南に行ったところを女王国の所在地としたものです。
図-4
図-5 末盧國から不彌國までのルート
図-4a
図-6 末盧國から不彌國までのルート(航空写真)

 このところ、書籍やWEB上で発表されている旅程についての考え方や事例をたくさん見ましたが、ある場所を探すのに、出発点から目的地への方向と距離を無視している例が多いのに驚かされました。まず、ある特定の場所を比定して、『魏志倭人伝』に書かれている方位と距離が合致しない場合に、『魏志倭人伝』記載内容をを無視又は間違いと決めつけることがその原因でしょうか?

6.《水行十日陸行一月》について

《水行十日陸行一月》を下記のように考え【図-9】に示しました。
①《水行十日》は下記の海路の所要日数の合計を示している
 ・帯方郡から狗邪韓国:7千里(一日の航海1000里として7日間)
 ・狗邪韓国から対海国と一大国を経て末盧國まで
       (一日の航海1000里として3日間)
 この解釈にはコメントが必要です。茂在寅男氏の『古代日本の航海術』によると、平均的な水行を23km/日としています。例えば、対海国(対馬)と一大国(壱岐)の時何時距離は約63kmあり、一日の航海では無理と思われます。しかし、一旦海域を横断するのに対馬と壱岐の間で船中泊することは考え難く、初夏の早朝に出航し、対馬海流と季節風に助けられて日暮れまでには入港することを想定しました。
②《陸行一月》は末盧國から《女王之所都》までの
 2000餘里(76m/里 X2000里=152km)を《陸行一月》の旅程とみる
 ・末盧國に上陸してひと休み
 ・帯方郡から伊都國の一大率に、魏使の船が付いたことを知らせる使者を送る
 ・伊都國より港に出向いてくる一大率の役人を待つ
   《王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露》
 ・徒歩で伊都國に到り宿泊。歓迎と一大率の検察を受ける
 ・伊都國を出発し、険しいところもある陸路を歩いて《女王之所都》に至る
 *徒歩で一日に歩く平均距離を7km(注)としますと、22日歩いて、8日をもろもろの用事や天候不順による待機に充てる計算になります。
 2000里X76m/里=152km  152km÷7km/日=22日
 (注):茂在寅男 『古代日本の航海術』1992年10月初版より
図-5
図-9 帯方郡から邪馬壹国に至る旅程

7.あとがき
 邪馬台国は何処にあったかを探るにあたって、魏志倭人伝の記述(特に距離と方向)を尊重して、上陸地の《末盧國》を宗像とし、《伊都國》を飯塚近郊、《女王之所都》を熊本近郊であると、私なりに結論を得ました。
 邪馬台国の所在地を探すには、『魏志倭人伝』をもとにした行程の解釈のみではその所在地は割り出せない、と言われているようです。例えば、
・考古学データ
・地名
・人口規模
・当時の気象状況
・地勢データ
・海洋学上から見た渡航技術
・文字の使い方や発音
 私が今回比定した、上陸地《末盧國》の宗像、《伊都國》の飯塚近郊、《女王之所都》の熊本近郊などについての説明は不十分ですが、《邪馬壹國》に熊本を比定した案(旅程は異なっていますが)も過去にはあり、考古学データ(遺跡や出土品)の説明をされている例もあります。それらも参考にしながら今後の課題とします。
【2020/06/01】

方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(1/3 前編
方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(2/3 後編