方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(1/3 前編)
方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(3/3 考察)


5.末盧國~不彌國の行程
 いよいよ九州に入り、まず、末盧國から不彌國に至る行程を探ります。
(1)記載の仕方に違和感
 行程を考えるときには、地名・向かう方向・到達するまでの距離や時間が必要です。まず気が付くことは、不彌國までは距離が示してあるのに、不彌國以降については、日または月になっていることです。かなり遠方にある土地へ行くのに距離の示し方が大雑把です。またよく見ると、伊都国の前後で記載の順番が異なっています。
 ①伊都国までは、方位・距離・地名の順番で記載されている
  始度一海 千餘里 至對海國
  又渡一海 千餘里 至末盧國
  東南陸行 五百里 到伊都國
 ②伊都国から以降は、方位・地名・距離の順番で記載されている
  東南至奴国 百里
  東行至不彌國 百里
 ③不彌國から以降は、方位・地名・方法・日または月
  南至投馬國 水行二十日
  南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

(2)面と点の考え方

 國と國との位置関係を見るときに、点と面の見方が重要になります。例えば邪馬壹国について、女王が居住しているところ、國そのもの、國が支配するところ、の3つの見方があります。また國と國との距離についても、國の境界同志の間とするか、國の特定の場所との間の距離とするか注意する必要があります。

(3)1里を何メートルと考えるか

 『魏志倭人伝』に記されている行程の中で、二つの隣り合った(確かと思われる)場所を地図上で実測できるのは対海国(対馬)から一大国(壱岐)のみです。
 Google Mapで実測すると対馬市~壱岐市間は約63kmになります。『魏志倭人伝』ではこの間を1000餘里としていますので、1里=約63mとしました。
<参考> 
①のちに、「短里説」についても知りましたが、1里の長さは対馬市~壱岐市間の距離より割り出しました
②九州の縦方向を実測すると、約340km、1里を63mとしますと約5400里になります。『魏志倭人伝』では、邪馬壹國の周囲を5000餘里としていますので、整合しているとは言い難いです。

(4)それぞれの國についての予備知識

①伊都國について
 《世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐》
 《特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國》:女王国に従属し、代々王が居て、役人(一大卒)を置く。入り口の監視所があり、(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所であり、邪馬壹國の出先として重要拠点となっていることが分かります。
②奴國について
奴國について下記の3点に注目しました。
・57年(建武中元二年)に倭奴国王、後漢の洪武帝に朝貢し金印を授かる
・《東南至奴国百里》:奴国は伊都國から東南100里のところにある
・《次有奴國 此女王境界所盡》:奴國は女王国(邪馬壹國)の北端に位置している
 奴國は、一世紀ころには力があった国ですが、今は邪馬壹國の支配下にあり、奴國が女王国(邪馬壹國)の北端に位置している。【図-7】参照

図-6
図-7 奴國は女王国の北端に位置している
 
③不彌國について
・《東行至不彌國百里》:不彌國は○○から百里行ったところにある
  ○○は「放射方式」の場合は伊都國、「連続方式」の場合は奴國となる
・不彌國は女王国(邪馬壹國)支配下にある
・以遠の行程を考えると、海又は大きな川に面している

(5)末盧國から不彌國までのルート 
【図-5】参照
 以上のことを意識しながら、『魏志倭人伝』に書かれている方位と距離をもとに、末盧國から不彌國までのルートを地図上に書き、宗像ルートを有力な解としました。
 ①伊都國を飯塚市近郊と比定
 ②女王国の所在地を熊本近郊と比定
 これは、帯方郡から邪馬壹國が12000餘里、帯方郡から伊都國の累計が10500餘里として、伊都國から「放射方式」により1500里南に行ったところを女王国の所在地としたものです。

図-4
図-5 末盧國から不彌國までのルート
図-5b
図-6 末盧國から不彌國までのルート(航空写真)

(6)伊都國と比定した飯塚市(飯塚市のホームページより)
 ・飯塚市は、福岡県の中央部北寄り、西は福岡市から北は北九州市からそれぞれ
  約 30kに位置
 ・北部と南部は、市を南北に流れる遠賀川流域平野として開かれている
  東部は関の山、西部は三郡山等に囲まれ、中山間地域
 ・交通面において現在は、道路は東西を国道 201 号が、南北を国道 200 号と
  国道 211 号が走る交通の要衝となっている
*女王国と比定した熊本については、説明を省略します。

(7)その他のルートについて

 その他のルートについては以下のように考えました。
 ⑤松浦ルート:「連続方式」により不弥国が鹿島近郊になり、海に近く、
        その先の《水行十日陸行一月》のルートの「創造」につながる
 ⑥唐津ルート:「連続方式」により、不弥国が川副近郊の筑後川に達し、
        その先の《水行十日陸行一月》のルートの「創造」につながる
 ⑨芦屋ルート:「連続方式」により、不弥国が豊前近郊と比定することにより、
        海に面することで、その先の《水行十日陸行一月》のルートの
        「創造」につながり易く、ヤマトつなげる場合有力なルートとなる
        (ただし、南を東と読み替える必要がある)
 
6.不弥国以遠に対する考察
(1)記述に対する疑問点
下記は何を意味するのか迷うところです。
《南至投馬國 水行二十日》 
《南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月》
①不弥国までは100里が示されているのに、不弥国以遠はあまりにも大雑把すぎる
②帯方郡から邪馬壹國が12000餘里とすると、帯方郡から伊都國の累計が10500餘里
 なので、伊都國から1500餘里南に行ったところに女王国の所在地があり、不自然である
③不弥国までの方向と距離の示し方が、不弥国以遠の表現と全く異なっており、
 何か意味があるのか、単に省略したのか

(2)帯方郡から女王之所都に至る大胆な解釈

 《水行十日陸行一月》を下記のように考えました。かなり大胆な解釈です。
 ①《水行十日》は、寄港地で休み、潮と風待ちをしながら
   下記の海路の所要日数の合計を示している。
  ・帯方郡から狗邪韓国
  ・狗邪韓国から対海国と一大国を経て末盧國まで
 ②《陸行一月》は下記の陸路の合計
  末盧國から《女王之所都》までの2000餘里(約126km)を
  《陸行一月》の行程とみる
  ・末盧國で上陸して休み
  ・入港した時に伊都國より検察に来る役人を待つ(これは想像)
  ・徒歩で伊都國に至り宿泊。歓待と一大率の検察を受けるための日数
  ・そのあと、険しいところもある陸路を歩いて《女王之所都》に至る

(3)投馬國

 投馬國については《南至投馬國 水行二十日》とあり、伊都國から「放射方式」により水行二十日のところ、邪馬壹國の近くにある比較的大きい国と考えます。深く追求しませんでした。

7.あとがき

 邪馬台国は何処にあったかを訪ねるにあたって、魏志倭人伝の記述(特に距離と方向)を尊重して、《伊都國》を飯塚近郊、《女王之所都》を熊本近郊であると私なりに結論を得ました。
 この結論はあくまでも、魏志倭人伝の記述にある、帯方郡から邪馬壹國が12000餘里、帯方郡から伊都國の累計が10500餘里として、伊都國から「放射方式」により1500里南に行ったところを女王国の所在地としたものです。

 「芦屋ルート」は、行程を「継続方式」として、「南」を「東」に変えてヤマトへ行くルートの一つの案として示しました。

 以下は、今回邪馬台国を探すのに『魏志倭人伝』に記載されている範囲とした前提を逸脱することになりますがご参考のために。
 『魏志倭人伝』の《自郡至女王國萬二千餘里》の前提を外すと今回の推理は全く変わります。『魏志倭人伝』から300年以上後の627年頃に書かれた『隋書倭(俀)国伝』(『隋書 唐夷伝 俀国』)にも《古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近》と書いてあり、帶方郡から一萬二千餘里と読み取ることが出来ます。 

 また、『隋書倭(俀)国伝』には気になることも書いてあります。《地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也》という段落ですが、《邪靡堆》と《邪馬臺》を「ヤマト」と読み、「大和」と理解すれば、邪馬台国は「大和」にあったことを証明する理由の一つになるかもしれません。
*『隋書倭(俀)国伝(627年頃)』は、『魏志倭人伝(280年頃』、『後漢書倭伝(424年頃)等に記載された内容を参考にして書かれたものとされています。(2020/05/03


最後にこれは冗談ですが、
先に示した「松浦ルート」で、不弥国を有明海に面した鹿島近郊に比定しましたが、不弥国の先の《水行十日陸行一月》のルートを自由に「創造」し、
・有明海を南下し、ある地点で下船、陸路で宮崎近郊に至り、
 そこを《女王之所都》とする
・卑弥呼が亡くなった後、神武はここを出発して東遷し
・290年に畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。これが大和国の始まりである。
 この冗談は、最後の陸行が九州を横断するために、東方になります。今回重要視した前提(距離や方向を守る)を外れることになります。

 こんな冗談もありかなと思うほど、特にネットの中の邪馬台国論は、学者先生、
古代史愛好家、私のような素人も交えた楽しい世界であるとも感じました。
追加 2020/05/05)


(付)『魏志倭人伝』に書かれている3世紀 追加 2020/05/05)
239年 景初二年 6月邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る。12月に勅書
240年 正始元年  (帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、
           梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)
           を捧げ持って倭国へ
243年 正始四年 倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣
245年 正始六年 詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、
          帯方郡に付して仮に授けた
247年 正始八年 (弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。
          倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、
          倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態
          であることを説明した 
247年 正始八年 (王頎は)塞曹掾史の張政(塞曹掾史)等を派遣し、
          張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、
          これを告げて諭した(筆者注:張政については266年に続く)
248年 正始年   卑弥呼死す。宗女の台与を女王とする
(266年 泰始二年)女王壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、
          張政等が帰るのを送らせた
        (筆者注:『魏志倭人伝』に何年かは記載されていない
方角と距離にこだわり邪馬台国の所在地を探る(1/3 前編)
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